さよならをいうとき

posted in: おやつの時間 | 0

会社の佐久間さんが昨日から
姿を見せなくなった

黒い縁のある眼鏡を
いつもネクタイの端で拭きながら
よわったよわったと
口癖のようにつぶやいていたかと思うと
ファックスは
どうして届くんだろうかと
メールはこの世に何をもたらすのかと
禅問答のような質問を
矢継ぎ早に繰り返す

ある日
三ヶ月ほど前の寒い昼下がり
めったに口をきかない佐久間さんが
帰りがけに駅前の居酒屋で
酒を飲もうと
思いがけない誘いを僕にした

いつもなら
黒い上着の男たちで賑わっている
この店も今日は閑散としている
僕と佐久間さんの関係が
たまたま公園のベンチで隣り合わせた
散歩途中の老人の様であることを
ますます
深く意識させてくる

佐久間さんは
その夜
ひとには言えない
決して言えない楽しみと悲しみが
誰の懐のなかにもあるものだと
しきりにくりかえし
コップの中の酒に向かって
叫ぶような大きな声で
聞き覚えのある唄を歌いかけた

ひとがさよならをするとき
ひとのこころに
すこしでも届く言葉を
かすかに響く言葉を
ひとが失っているとすれば
それはおそらく
長い年月に埋もれてしまった群衆のなかの孤独が
いまだに
窓の外へ出ていけずに
机の端やゴミ箱の角に
ぶつかりながら
あっちへふららこっちへふららと
さまよっているからだろう

佐久間さんは
その夜
僕に言いかけたかった何かを
言えずに
これまでと何一つ変わらず
居酒屋のテーブルの端を
こつこつつつきながら
自分自身をその穴の中に
埋め込んでいってしまった

会社の佐久間さんが
昨日から姿を見せなくなった

夕暮れの
群青色の窓の外には
夥しい数の佐久間さんが
駅の改札口に向かって
行進していくのが
見えている

コメントを残す